背景

チェチェン紛争の経緯

黒海とカスピ海に挟まれたカフカス地方に属するチェチェンは、面積一万四千六百平方キロと四国地方とほぼ同じ 広さであり、北部は平原、南部は五千メートル級の険しい山々が連なるカフカス山脈となっている。十八世紀後半 に帝政ロシアが侵略してくると、独立不羈の気風に富むチェチェン人は激しく抵抗し、約一世紀にわたって「カフ カス戦争」を繰り広げたが、最終的には併合されてしまった。それでもチェチェン民族の執拗な抵抗は続き、ソビ エト体制化になっても中央政府の農業集団化政策や反宗教政策に反対するなど、モスクワの神経を逆撫でするよう な動きを見せていた。

そのため、第二次大戦末期の44年に、スターリンは「チェチェンはドイツに通謀して祖国を裏切った」という嫌 疑をかけて、チェチェン民族約30万人をカザフスタンに強制移住させた。故郷を奪われ、また、追放の過程で数 々の迫害に直面したチェチェン人の間には、反ロシア感情が更に深く刻みつけられることとなった。チェチェン民 族の故郷への帰還がようやく認められたのは、スターリン批判が行われたフルシチョフ体制下の57年のことであ り、ロシア共和国内の十六自治共和国の一つとして、チェチェン・イングーシ自治共和国が成立した。

91年10月、モスクワでのクーデター発生による混乱の中で、チェチェンではドダエフ元ソ連空軍将軍に率いら れた武装組織が政府機関を制圧した。その直後に強行された選挙で大統領に選出されたドダエフは、チェチェン・ イングーシ自治共和国のロシアからの独立を一方的に宣言したが、ソ連崩壊による急激な政情変化の最中でモスク ワにはチェチェンのことを省みるゆとりはなかった。なお、92年にチェチェンとイングーシは分離し、イングー シはロシアへの残留を決めている。

モスクワの視線が再びチェチェンに向けられたのは、エリツィン体制がようやく軌道に乗った94年のことだ。チ ェチェンの存在は、他地域での分離独立の動きを加速して大国ロシアの崩壊につながりかねない(ソ連崩壊後に独 立できたのは、旧ソ連内部でロシア共和国と同格とされていた15共和国のみ)だけでなく、チェチェンを拠点に 麻薬売買や密輸、更に通貨偽造などでマフィアが暗躍し、深刻な治安問題を引き起こしていたためだ。ロシア側の もう一つの懸念は石油利権だった。チェチェン東方に位置するカスピ海沖油田は世界有数の産油量を誇っているが 、その原油を輸送するパイプラインはチェチェンを経由しており、そのパイプラインの利用料としてロシアは年間 数億ドルの外貨を獲得していたのである。

94年8月にチェチェンではドダエフ派と反ドダエフ派の内戦が発生し、これを好機ととらえたエリツィン政権は、 12月にロシア軍をチェチェンに侵攻させた。大量の戦車・装甲車を投入して短期の事態解決を目論んでいたロシ ア政府だったが、チェチェン側では反ロシア感情からドダエフ派と反ドダエフ派が結束して激しく抵抗した。ロシ ア軍は翌年1月に首都グロズヌイを陥落させるが、その後も山岳地帯に拠点を移した独立派ゲリラの襲撃が頻発し、 事態は泥沼化して「第二のアフガニスタン」の様相を呈した。96年4月にドダエフ大統領が戦死したことでよう やく和平の動きが進展し、同8月、レベジ安全保障会議書記とチェチェン独立派のマスハドフ参謀長との間で合意 が成立し、独立問題については先送りの形で停戦した。翌97年2月に実施された選挙では、マスハドフが新大統 領に選出されている。

再度の侵攻

その後、マスハドフ大統領は97年夏にロシアとの対話を打ち切ると、石油利権を餌にしてイギリスの投資家グル ープに接近し、98年初頭にはロシアとのパイプライン協定を破棄する可能性を言及するようになった。更に、ロ シアに残留していたダゲスタン共和国の原理主義者をチェチェン側が煽動したため、同国内でロシアからの分離独 立を求める動きが急速に広がり、タゲスタンに駐屯するロシア軍部隊が襲撃される事件が続発した。ロシアの所有 するカスピ海沿岸線の三分の二がタゲスタン領であることから、タゲスタンが「チェチェン化」して分離すれば、 ロシアはカスピ海油田の所有権を失うとともに、両国を通過するパイプライン利権までも手放すことになる。ロシ ア政府としては、この状況を決して看過するわけにはいかなかった。

99年8月には、バサエフ司令官を中心とするチェチェン武装勢力がタゲスタンに侵入してイスラム国家の樹立を 宣言した。ちょうどその頃、モスクワなどで爆弾テロが連続発生し、約300人が死亡する惨事となった。これを チェチェン独立派の犯行と断定したロシア政府は、9月にチェチェンに再侵攻し、翌2000年2月にはチェチェ ンの首都グロズヌイを再び陥落させた。この時に強硬姿勢を打ち出して国民の支持を集めたのがプーチン首相( 当 時)であり、その余勢を駆って同年三月の選挙で大統領に当選した。しかし、その後もチェチェンに駐屯するロシ ア軍や治安部隊に対するゲリラが頻発し、劇場占拠事件の二ヶ月前には、グロズヌイ近郊でロシア軍のヘリコプタ ーが撃墜され、兵士約百二十名が死亡する事件が発生している。

この二度にわたる紛争がチェチェン住民に与えた被害は甚大であり、首都グロズヌイは度重なる砲撃と爆撃で廃墟 と化した。チェチェンを占領したロシア軍は、独立派ゲリラに対する掃討作戦を進める過程でチェチェン民族に対 して過酷な弾圧を加え、人権団体の推定によると、紛争発生以来の死者・行方不明者は六〜八万人に達する見込み だ。その結果、紛争発生前には約百万人だったチェチェン共和国の人口が、2000年には七七万人にまで減少し 、約二十万もの住民が隣国のイングーシ共和国やモスクワなどの都市部に流出したと言われている。

チェチェン独立派によるテロ

長年にわたる軍事的衝突の中で、チェチェン独立派によるテロ事件が頻発した。95年6月には、バサエフ司令官 率いる独立派武装集団が、チェチェン国境に程近いロシア南部スタブロポリ地方のブジョンノフスク市で病院を占 拠し、患者・職員など約二千名を人質に取った。テロ対策部隊アルファに率いられたロシア軍や内務省部隊が突入 を強行したが失敗し、「人間の盾」に使われた市民百数十人が命を落とした。そのため、武装集団とロシア政府と の間で停戦がなされ、武装集団は人質の一部とともに車両でチェチェン領内に帰還した。

翌96年1月には、ドダエフ大統領の娘婿のラドエフ司令官率いる武装集団が、チェチェンに隣接するダゲスタン 共和国キズリャルで病院を占拠し、約三千名が人質となった。前年の事件と同様に、武装集団はロシア軍と停戦し てチェチェン領内に帰還しようとしたが、これはロシア側の策略だった。ロシア軍は、途中の橋梁を破壊して武装 集団をペルボマイスコエ村に足止めすると、爆撃機や攻撃ヘリコプター、更に多連装ロケット砲を繰り出して無差 別攻撃をかけたのである。この作戦でロシア軍は武装集団百数十名を倒したが、百名を超える人質や村人が犠牲に なったと見られる。また、これと同時期に黒海のトルコ沖で乗客・乗員約二百数十名(その大半はロシア人)の乗 船したフェリーが独立派テロリストにシージャックされた。この事件では、最終的に犯人9名がトルコ当局に投降 している。

2001年3月には、イスタンブール発モスクワ行きのロシア旅客機がハイジャックされ、サウジアラビアのメデ ィナに着陸した。ハイジャック犯はチェチェン共和国元内相ら四人で、チェチェン情勢に世界の注目を集めるのが 目的だった。サウジアラビアの特殊部隊が機内に突入し、犯人一人を射殺、残りを逮捕したが、その際に人質2名 が死亡した。同年8月には、二人の独立派テロリストがスタブロポリで路線バスを乗っ取り、35人の乗客を人質 として服役中の同胞5人の釈放を要求したが、特殊部隊アルファが突入して犯人一人を射殺、もう一人を逮捕した。

  以上のほかにも、チェチェン独立派によるテロ事件はまさに枚挙の暇がないほどに頻発しているのが現状である。 また、チェチェン独立派の有力司令官であるバサエフとハッタブには、イスラム過激派指導者のビン・ラディンか ら資金や武器の提供がなされていたとの情報がある。

絶望的状況下での作戦

それでは、今回の事件におけるロシア側の作戦を論じていくこととしよう。武装集団の指揮官だったモフサル・バ ラエフは、2001年6月にロシア軍に殺害されたバラエフ司令官の甥で、叔父の死によって指揮権を引き継いだ ものと見られる。まだ二十歳代でありながら、90年代半ばから誘拐事件を幾度も敢行し、その残虐な手口で知ら れていた。チェチェン独立派は、9.11テロ事件以来米国と結んだロシア政府の厳しい圧迫に直面し、有力司令 官のバラエフやハッタブが戦死するなど大きな打撃を受けていたことから、チェチェン問題に再び西側諸国の関心 を集めることを狙いとして今回の事件を引き起こしたと推察される。

劇場占拠後にマスコミのインタビューを受けたモフサル・バラエフは、「モスクワには死ぬために来た」と発言し ているが、これは決してハッタリではあるまい。ロシアが夥しい犠牲を払って占領したチェチェンをむざむざと独 立派に引き渡すわけがなく、おそらく十中八九は自爆することになると計算していたはずだ。その覚悟は、自爆用 に爆薬を身体に巻きつけた女性テロリストの存在からも察することができる。もしも長期にわたって粘り強く交渉 するつもりであれば、戦闘訓練を受けておらず、体力的にも劣る女性テロリストを参加させるとは考えにくいから だ。プーチン政権のお膝元で大事件を引き起こし、世界中の報道機関にチェチェンの大義をアピールした上で、最 期は憎きロシア人多数を道連れにするという自殺攻撃だったのだろう。

ロシア治安当局の側から見れば、状況は絶望的だった。これまで数々の人質立て篭もり事件で行われた突入作戦は まず通用しないと見てよい。自爆要員の女性テロリストを除いても、まだ二十人以上の重武装したテロリストが劇 場内で待ち構えており、いかに精強の特殊部隊でもなかなか殲滅できるものではない。特殊部隊が人質のいる観客 席までようやく血路を開いたとしても、そこで爆薬に点火されればジ・エンドだ。大型爆弾が炸裂すれば劇場が倒 壊し、人質は全滅、突入部隊にも甚大な被害が発生したことだろう。この窮地の中でロシア当局の用いた奇策が特 殊ガスの使用である。

ただし、今回の特殊ガス作戦は決して付け焼刃ではない。おそらくロシア側は、前述した95年の病院占拠事件で 強行突入に失敗して多数の人質が犠牲となったことを受けて、新たな対抗手段として特殊ガスの研究を密かに進め ていたものと推定される。どのような薬剤の組み合わせが最も効果的か、薬剤が室内に拡散するのにどの程度の時 間がかかるか、薬剤をエアロゾル化する際に粒子の大きさはどの程度が適当かなど、相当な研究を要したことだろ う。机上の計算だけではなく、実際に様々な建物に薬剤を噴霧するなど実験を繰り返してデータを蓄積していたは ずだ。