経過

タイタニック号は20世紀初頭における最先端技術を駆使したの世界最大級の豪華客船として、英国のホワイト・スター・ライン社によって1909年3月からアイルランド、ベルファーストにて建造が開始され1911年4月に完成された。それは当時、ホワイト・スター・ライン社とライバル関係にあったキューナード・ライン社に対抗した大型豪華客船で約3年の歳月、約1万5千人の人手、そして、約7,500,000ドルの建造費を用いたものだった。ホワイトスター・ライン社は1845年に設立、それ以来、同船の姉妹船であるオリンピック号を始めとして、ロイヤル・スタンダード号、ブリタニック号、等の豪華大型客船を建造しており、その多くは大西洋の横断船として活躍していた。しかし、その一方で海難事故も少なくなく、1873年にはアトランティック号が悪天候のために沈没、546名の犠牲者を出している。

タイタニック号の出発は、その工期の遅れから予定より約1ヵ月遅れていた。そんな中で向かえた1912年4月10日、タイタニック号は英国サウサンプトン港のホワイト・スター・ドックにて、その処女航海への準備を着々と進めていた。当日のサウサンプトンは快晴、タイタニック号の出発予定時間は正午であった。当航海におけるタイタニック号の航路としては、フランスのシェルブール港(Cherbourg)とアイルランドのクイーンズ・タウン(Queens Town−現在Cork)に寄港し、乗客や荷物等の積み下ろしをした後、その最終目的地であったニューヨークに大西洋を横断して向かう予定であった。

1912年4月10日正午、エドワード・ジョン・スミス船長(Captain Edward John Smith)が指揮するタイタニック号は、その出港予定時間通りにタグボート*1に曳航されて埠頭を離れた。しかし、その直後にその大きさにより引き起こされた水流が原因でアメリカ定期船ニューヨーク号との幅1.2mという超ニアミスを引き起こし、出港時間が約1時間遅れことになる。タイタニック号は午後1時に最初の目的地であったシェルブールに向けて出港した。サウサンプトンを出港後、タイタニック号は順調に2つ目の目的地であったクイーンズ・タウンまで航海を続け、翌朝の11時にクイーンズ・タウン沖約2海里の海上に停泊する。クイーンズ・タウンでは、乗客や郵便物等の積み下ろしが行われた後、11日午後1時30分に最終目的地ニューヨークに向けて再出港した。その時点での乗員、乗客数は約2200名だったといわれている。(正確な人数は不明)

クイーンズ・タウン出港後の3日間は天候にも恵まれ、タイタニック号はその最高速度に近い22ノット*3で航海を続け、13日までに約1,000海里*2の航海を消化していた。そして、航海4日目の4月14日、その日は快晴で海面は湖のように静かな日だった。午前9時、キューナード・ライン社のカロニア号より北緯42度、西経49度から51度の位置に氷山および氷原ありとの無線電話を受ける。このときタイタニック号は北緯43度35分、西経43度50分の位置を航海中であった。続いて、11時40分にオランダ船ノートルダム号から、同じ内容の無線電話を受け取る。更に、13時42分、バルティック号からも「航海先の天気は快晴、風は穏やかだが変化しやすい。ギリシャ汽船のアシナイ号から本日、北緯41度51分、西経49度52分に氷山及び大きな氷原に遭遇したとの連絡あり。幸運を祈る」といった内容の電文が届く。それらの警告電文はスミス船長に渡り、その後にホワイト・スター・ライン社の社長であったJ・ブルース・イズメイ氏(J Bruce Ismay)に渡るが、イズメイ氏は全く気に止めずそれをポケットに突っ込んだ。彼はのちに2人の女性乗客にその電文を見せている。その後、タイタニック号は幾度かに渡り同様の警告を受けるが、その警告は深刻に受け止められず、同船は速度を全く落さずに航海を続けた。

14日午後5時50分、スミス船長はタイタニック号に航路を予定より若干南に変更する。同日はその天候から昼間は暖かかったが、日が沈むにつれて外の気温も下がり、午後5時30分の時点では摂氏0度程まで下がっていた。午後6時、それまでの当直であった航海士長のヘンリー・ティングル・ワイルド氏(Chief Officer Henry Tingle Wilde)に変わり、二等航海士のチャールズ・ハーバート・ライトラー氏(Second Officer Charles Herbert Lightoller)がブリッジの当直に就く。ブリッジの当直は上級航海士により4時間交代で行われており、その間には8時間の非番があった。時刻が午後7時を回った頃、スミス船長は、午後にバルティック号から受け取った警告電文をイズメイ氏から返してもらい海図室に貼り出す。そして、その電文を見てか、一等航海士であったウィリアム・マクマスター・マードック氏(First Officer William McMaster Murdoch)は船内の明かりが船前方の監視の妨げにならないよう前部船首楼ハッチを閉鎖している。

午後7時30分、タイタニック号はレイランドライン社の貨物船、カリフォルニアン号から大氷原の警告電文を3度受け取る。そして、それはブリッジに伝えられる。その後、スミス船長は一等船客ら富豪の夕食会に出席し、ブリッジに戻ってきた際にライトラー2等航海士と天候や航路等の状態について会話を交している。その中でスミス船長は、海面が湖のようで氷河を発見しにくいので注意するようにとライトラー氏に忠告、「何か変わったことがあったら起こすように」との言い残し、就寝のため自室に引き上げる。午後9時40分、タイタニック号は当航海最後となる警告をメサバ号か受ける。その内容は「北緯42度から41度25分、西経50度30分に氷山と氷原発見」といったものだったが、無線士達はその警告を完全に見過ごす。午後10時、マードック1等航海士がライトラー2等航海士と交代してブリッジの当直に就く。

マードック1等航海士が当直に就いて間もない午後10時30分、タイタニック号から約19海里の位置にて航海中であった、カリフォルニアン号は浮氷原のため停船、そして、周辺一帯を航行する船舶に対して警告を送った。その警告はタイタニック号も受け取っている。その警告に続きカリフォルニアン号の無線士はタイタニック号を呼び出し再び警告するが、タイタニック号からは「Shut up, shut up. I'm busy.」“黙れ、黙れ、こっちは今忙しいのだ!”という返事が返ってくる。その後、カリフォルニアン号の三等航海士が右舷を東方から走るタイタニック号の灯火を確認している。そして、カリフォルニアン号の無線士はしばらくタイタニック号の無線交信を聞いた後、通常通り午後11時30分に無線装置のスイッチを切る。

度重なる警告を受けながらも、タイタニック号は20.5ノットという高速で航海を続けていた。そして、14日も終わろうとしていた午後11時40分、突然船内に警報のベルが鳴り響いた。それは、監視台の当直に就いていた見張り番が、同船の前方450m程に海面からの高さ17〜18mの氷山を発見しブリッジに警告を出したものだった。見張り番はブリッジに「まっすぐ前方に氷山を発見」と報告、ブリッジにてその報告を受け取ったマードック1等航海士は操舵手に向かって「左舷(Port)に面舵いっぱい」と叫び、機関室に「エンジン停止」、続いて「全速後退」(Full speed astern)を命じた。そして、タイタニック号の巨大な船体は徐々に左舷旋回し始める。しかし、氷山発見から37秒後、タイタニック号の巨大な船体は氷山が避け切れず、その前方右舷が氷山と接触、船腹をなぞるような形で氷山の左側を通り抜けた。この衝突による衝撃は、同船前方部にいた乗組員達によって確認されたが、多くの乗客はその衝撃に気が付くことはない小さいものだった。タイタニック号は北緯41度46分、西経50度14分で氷山に衝突、そして少し進んで停船した。 4月15日午前零時、タイタニック号の船体はゆっくりと沈み始めていた。スミス船長は同船の設計士であったトーマス・アンドリュース(Thomas Andrews)と共に被害を点検するために船内を一巡した。そして、スミス船長に被害状況を尋ねられたアンドリュース氏は沈没までに1時間ないし1時間半と回答した。それを聞いたスミス船長は、直ちに無線士に国際遭難信号「SOS」を発信するよう指示、世界で初めて国際遭難信号が発信された。続いて、救命ボートの準備と、そのボートへの搭乗人物の割り当てを命じた。午前零時10分、1等船客に対してスチュワードが1室1室丁寧に避難の知らせを始める。それに対して、2等、3等船客には1人のスチュワードが客室のドアを開き荒々しく叩き呼び起こして回った。

タイタニック号の遭難信号を受けた船舶が次々とタイタニック号の救助活動に出発する。午前零時15分、タイタニック号の最も至近距離の約14海里(同船のジェイムス.H.ムーア船長は約50海里と証言している。)の位置で救難信号を受け取ったといわれているマウント・テンプル号は、その救難信号を受け救助に向かうことを告げる。そして、タイタニック号に向かって出発するが、自らが氷山と接触することを恐れ船停してしまう。また、タイタニック号から約19海里の位置で停船していたカリフォルニアン号では、その無線装置の電源が既に切られていたため、その遭難信号は受信されなかった。タイタニック号の救助活動に向かった船舶には、同船から約58海里の位置で救難信号を受け取ったキューナード・ライン社のカルパチア号を始め、約500海里の離れたタイタニック号の姉妹船のオリンピック号等が含まれていた。

午前零時25分、スミス船長が女性と子供を優先して救命ボートに乗せるよう指示を出す。そして、その指示に従い左舷側で救命ボートの指揮をしたライトラー2等航海士は、女性や子供の優先を徹底して行う。しかし、それに対して右舷側を指揮していたマードック1等航海士は、「女性と子供が優先だが、他にいなければ、男性も乗ってよい」という柔軟な考えで救命ボートに指揮を行っていた。そして、その脇では1等客室ラウンジで演奏していた楽士団が甲板にて軽快な曲を演奏し始めていた。午前零時45分、最初の救難ロケットがブリッジの右舷側から発射される。それはカリフォルニアン号によっても確認されたが、カリフォルニアン号側はマストの灯火の揺らめきと判断してしまう。

タイタニック号には標準救命ボート(3号から16号)と呼ばれる定員65名のボートが14隻、そして、緊急救命ボート(1号から2号)と呼ばれる定員40名のボートが2隻、更に、折り畳み式ボート(A号からD号)と呼ばれる定員47名のボートが4隻設置されていた。(図6参照)救命ボートの設置位置は、そのほとんどが同船の甲板に設置されていたが、その中で折り畳み式ボートのA号とB号は、船員室の屋根上に設置されていた。救難ロケットの発射とほぼ時を同じくして、最初の標準救命ボートであった右舷7号ボートが65人の定員に対して28人を乗せて海上に降ろされた。そして、右舷7号ボートボートに続いて、右舷5号ボート、左舷6号ボート、右舷側3号ボート、右舷1号ボートがそれぞれ36名、24名、40名、12名を乗せて海面に下ろされたが、それらの救命ボートの定員数は満たされるどころかその定員数の半分にも至らないボートも存在した。しかし、時間が経過すると共に救命ボートの数が残り少なくつれて、各ボートの前に人々が殺到し、それぞれの定員で一杯になり始める。午前1時40分、左舷側15号ボートは定員一杯の65人を乗せて海面に下ろされる。そのとき、20隻あった救命ボートは残り7隻になっていた(折り畳み式ボートを含む)。そして、残った乗客は浸水のため船尾の方に移動を始めた。

左舷側15号ボートに続いて、マードック1等航海士の指揮下にあった右舷側の折り畳み式ボート、C号が定員47名のところ39人を乗せて海面に下ろされようとしていた。そして、その女性や子供の避難者に混ざるようにホワイト・スター・ライン社の社長であったJ・ブルース・イズメイ氏が乗り込んだ。

午前1時10分、6発目となるのタイタニック号の救難ロケットがカリフォルニアン号の2等航海士により確認され、その船長であったロード氏(Captain Stanley Lord)に報告されるが処置は取られなかった。午前2時15分、タイタニック号の浸水はブリッジの周辺までに達していた。多くの乗客が海へ飛び込むなどして非難を開始する一方で、甲板では楽士団による演奏がまだ続けられていた。この時点で、既に18艇の救命ボートが同船を後にしており残るボートは、折り畳み式ボートのA号とB号であった。しかし、その2艇は高級船員室の屋根の上に設置されおり、その設置位置から甲板に下ろすことは非常に困難であった。そのため、乗務員達はオールを屋根と甲板に渡し、その上を滑らせB号を甲板に下ろすことを試みたが失敗、ボートは海上に逆さまに転落しまう。しかし、A号はタイタニックが沈んでいく過程で着水に成功、16名が乗り込んだ。

更なるタイタニック号船内への浸水が進むにつれて、その船首は急速に沈み始め船尾が持ち上がる形になり、その影響で船首側の煙突が倒れ海上に避難していた人の上に倒れる。そして、浸水を避け船尾の甲板に集まった人々はトーマス・バイルズ神父の基へ集まり始めそれぞれの罪の告白し始める。時をほぼ同じくして、トーマス・アンドリュース氏が一等喫煙室で空を見つめるように立っている姿が最後に目撃されている。そして、スミス船長は乗務員達に「みんな、自分のために行動せよ」と告げブリッジに戻った。スミス船長はブリッジにて最後を迎えたといわれている。

午前2時18分、船内の固定されていない物が次々と船首の方に突進し始め、船内の灯火が消える。その直後、タイタニック号の船体が中央付近で二つに裂け、その持ち上がっていた船尾が海面に叩きつけられるように着水する。この瞬間は多くの生存者によって目撃されている。このとき船首側船体はほぼ完全に浸水しており、浮力を失った船首は船尾を海底に引き込む形で沈み始める。それにより、船尾は船首に引かれ再び海面より持ち上がり海面に対して垂直になる。そして、そのままの状態で海に飲み込まれ、タイタニック号は完全に沈没した。その瞬間を救命ボートの上で見ていた3等航海士のピットマン氏が時計を見て「今2時20分だ」と言った。

タイタニック号の沈没直後の海面には、板箱、デッキチェアー、張り板のような様々なものと共に、数百名の人々が助けを求めて漂流していた。2時30分、救命ボート14号艇に乗っていた5等航海士のハロルド・ゴットフリー・ロウ氏(Fifth Officer Harold Godfrey Lowe)は、10号、12号、4号、D号を集結させ救助作業のため再編成を行うが、実際に漂流者の下へ向かったのは、それから約40分後の3時10分だった。そして、約1時間に渡り救助活動を行ったが、海上から救助されたのはわずか4名で、その内の1人は救助後のボートで凍死した。その後、ロウ5等航海士の乗る14号艇は、着水の際に横転した折り畳み式ボートB号上で漂流していた約30名を救助する。その中にはライトラー2等航海士が含まれていた。

午前4時5分、58海里遠方より救助に駆けつけたカルパチア号によって左舷2号救命ボートが最初に発見され、その生存者が保護される。そして、それを先頭に次々に各救命ボートの生存者がカルパチア号によって保護された。その中にはイズメイ氏も含まれていた。タイタニック号が沈没してから約3時間20分後の午前5時40分、カリフォルニアン号の1等航海士は夜中に上がっていた信号灯が気になり、その無線技師に確認をとらせて始めてタイタニック号の沈没を知ことになる。午前5時42分、カリフォルニアン号のロード船長がタイタニック号救助の指示を出し、午前6時、カリフォルニアン号は停船場所から出発、午前7時30分、カリフォルニアン号は沈没現場付近に到着した。

午前8時30分、カリフォルニアン号がカルパチア号の近くに到着し生存者を調べる。そして午前8時40分、カルパチア号にあるホールにおいて双方の乗員乗客が集まり犠牲者に祈りを捧げ、カルパチア号は705人の生存者を乗せてニューヨークに向けて現場を離れる。犠牲者は1522名と推測される。イズメイ氏はホワイト・スター・ライン社のニューヨーク事務所に「まことに遺憾ながら、タイタニック号は氷山と衝突後、沈没。犠牲者多数。詳細は後ほど」と無電を打った。

現在、タイタニック号はアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンの真東1610Km、ニューファウンドランド、セント・ジョンズ沖604Kmの海底3773mに眠っている。

用語解説

*1 タグボートとは港内外で他船を曳いて移動させたり押したりして出入港を助ける小型船。 曳船(広辞苑より引用)
*2 1海里は約1852m
*3 船舶・海流などの速度の単位。1時間に1海里(1852m)の速度を1ノットという。 (広辞苑より引用)