原因

タイタニック号は、全長約883フィート(268m)、総トン数約46,350トン、そして、最大収容人数(乗客、乗組員を含む)3547名を誇る世界最大級の豪華客船であった。タイタニック号はその船底に2重構造を持つ上に、ブリッジから開閉が可能な防水ドアを装備した15壁の水密隔壁を設置していたこと等から、新聞や雑誌等から「Practically Unsinkable」(沈みようのない船)と称されていた。

では、タイタニック号は本当に「Practically Unsinkable」だったのだろうか。一般的に大型船は小型船と比較して沈没し難いといわれている。それは、その船体に2重船低構造や水密区間構造が採用された船舶が多いことによるもので、それらの構造は20世紀初頭から研究が進められてきた。2重船低構造とは、外部船底に加えて内部側にもう1枚の船底が設けられている船体構造であり、座礁等により外部船低が破損した場合でも、内部船低が浸水を防ぐというものである。また、水密区間構造とは、船体の前方から後方まで、縦に仕切りが設けられている構造で、例え2重船底が破損した場合でも、船体への浸水はその仕切りで区切られた最小限の区間のみに抑えられるようになっている。

タイタニック号の客室には2等、3等客室数と比較して1等客室数が圧倒的に多い、その1等客室数から伺えるように、タイタニック号を建造したホワイト・スター・ライン社は「豪華さ」を売りにした客船を多く建造していた。その一方、いち早くタイタニック号の救助に駆けつけたカルパチア号を建造したキューナード・ライン社は「安全性」を重視していたといわれている。そして、その船体構造は両社の間でかなり異なったものだった。安全性を重視していたといわれているキューナード・ライン社では、縦置きの隔壁が全て上部甲板(隔壁甲板)に達する構造をしていた。この構造は船底から上部甲板までを完全な水密区間にすることが可能であった。それに対して、タイタニック号では船内の使い勝手が重視されたため、多くの縦置き隔壁は上部甲板まで達していなかった。また、中央部に設置されていた縦置き隔壁は上部甲板まで約半分の位置にしか達しておらず。これは、満載喫水線上約0.8m 高さで完全な水密区間というにはほど遠い構造であった。

一般的に、船体に使用されている鋼板は各部位によってその厚みが異なる。それは、海難事故に多く見られる、座礁、または船舶間での衝突等によって被害が想定される部分を補強するような形でその厚みが決定されている。そして、タイタニック号においても船首や船底は特別強固に建造されていた反面、船体側面においては破損する可能性の少なさ等から、厚い銅板から成る船首や船底と比較して薄い鋼板が使用されていた。また、タイタニック号に使用された船体鋼板には大量の硫化マンガンが含まれており、それは鋳鉄に近い粗悪材だったといわれている。硫化マンガンを含む船体鋼板は、零度以下の低温において極度に強度が低下する材質であり、事故当時におけるタイタニック号の船体銅板の強度はその温度におり低下していたと見られている。そんな中でタイタニック号は氷山に衝突し、船体側面を裂くように損傷を受けた。その結果、構造的に弱い船体側面に採用された粗悪材に直接衝撃を受けるような形となり浸水が始まる。更に、15壁あった水密隔壁も本来の水密効果は得られず、それらはことごとく破損してしまった。

タイタニック号の沈没事故では、死者が1,500名を超える大惨事となり、その人数は救助された約700名と比較して約2倍の人数であった。では、何がタイタニック号の惨事を拡大したのだろう。その要因の1つとして救命ボートの数がその最大搭載人数に対して圧倒的に少なかったことが上げられる。当初、タイタニック号の開発段階においては、その最大搭載人数であった3,300名全員を収容できるように60隻の救命ボートが備え付けられる予定であった。しかし、ホワイト・スター・ライン社のイズメイ社長によって、1等客室からの景色の妨げになる等の理由から、救命ボートは、60隻から40隻、30隻、そして20隻まで減らされてしまった。そして最終的には、定員65名の標準救命ボートが14隻、そして、定員40名の緊急救命ボートが2隻、更に、定員47名の折り畳み式ボートが4隻設置され、その総合収容人数は、タイタニック号の最大登載人数の約1/3の1178名であった。

タイタニック号は周囲の船舶から度重なる警告を受けながらも、それを無視するかのように高速で航海を続けた。そして、それは当時ホワイト・スター・ライン社とキューナード・ライン社の間では激しいスピード競争が展開され、最速記録の船舶はブルーリボン記録ホルダーとして称えられてきたためであった。その処女航海においてタイタニック号は予定通りにニューヨークに着くことは当然とされ、予定から遅れるという汚名は着せられないという使命があった。また、以前にホワイト・スター・ライン社のオリンピック号が達成した航海速度記録の22.75ノットを破ることも当然の使命であった。このような使命からタイタニック号は流氷の中をその最高航海速度に近い21.5ノットで航海、そして事故にあった。同船がもしも衝突事故を起こさなければ記録更新は間違いなかったといわれている。

タイタニック号の見張りが氷山を発見してからその衝突まで約37秒間だったといわれている。では、なぜ氷山の発見が遅れたのだろう。それは、事故当時のタイタニック号周辺は、月明りも乏しく前方の視界は決して良い方ではなかったためといわれている。更に、事故当日は風が全くない静かな夜で海面は鏡の様に静まり返っていたため、通常であれば氷山の周囲に立っているはずの白波がほとんどなかったことも上げられる。しかし、最大の要因は、見張り員が双眼鏡なしで見張り台に立っていたことであったといわれている。

タイタニック号の沈没事故で救助された人数は705名とされている。しかし、その人数は救命ボート20席における収容可能人数1178名を大きく下まわる。その大きな要因としては、乗務員を始め乗客が事故発生において、敏速に状況を判断して適切な行動が取られなかったことが指摘され、それらは、救命ボートの約半数が定員に満たさないまま船を離れたこと、スミス船長が救難信号をすぐに発信しなかったこと等によっても裏付けられている。 しかし、タイタニック号の周辺には少なくとも2艇の船舶が航海または船停していた。カリフォルニアン号とマウント・テンプル号である。そして、その距離はマウント・テンプル号が約14海里(同船のJ.H.ムーアは約50海里と証言している。)、カリフォルニアン号は約19海里であった。マウント・テンプル号の船長であったJ.H.ムーア氏は、タイタニック号の救難信号を受け、一度は救助に向かったものの自らの船舶が氷山と接触することを恐れ途中で船停してしまう。一方、カリフォルニアン号は11時30分に通常通り無線の電源が切られたため、救難信号を受信できず、翌朝の5時40分までタイタニック号の惨事に気が付くことはなかった。タイタニック号から14海里の位置で救難信号を受けたといわれているマウント・テンプル号が救助活動に向かっていたら大惨事には至らなかったといわれている。マウント・テンプル号の最高航海速度は約11ノットであった。14海里をその11ノットの速度で航海すると、約1時間30分程で到着する計算になる。マウント・テンプル号がタイタニック号の救難信号を午前零時過ぎに受け取ったと過程すると、同船が沈没した午前2時20分まで、2時間以上はあった。

タイタニック号の惨事は、いくつかの出来事が重なり発生したといわれている。同船はその工期の遅れから出港が約1ヵ月に渡り遅れ、4月10日に処女航海を迎えたが、出港の際にもニューヨーク号との超ニアミスを引き起こし、1時間に渡って出港が遅れている。そして、これらの出港の遅れがタイタニック号の惨事を招いた、または悪化させたとされている。それは、もしもタイタニック号が4月10日ではなく予定通り3月中旬の出港していた場合、その航路には流氷の量は少なく氷山との衝突事故の発生確率は少なかったといわれているからである。また、同船が予定通りの正午に出港していれば事故の発生も約1時間早まった可能性も高く、カリフォルニアン号の無線電源がまだ切られていなかった可能性が高かったためである。