失敗百選
〜雪印乳業役も工場製の脱脂粉乳ミルク中毒(1955)〜


【事例発生日付】1955年3月1日午後〜3月2日

【事例発生場所】東京都墨田区、練馬区など小学校計9校

【事例概要】
   脱脂粉乳を飲んだ東京都の児童ら1,936人が、相次いで激しい嘔吐や下痢、 腹痛などの食中毒症状を起こした。
   製造設備の修理と停電で、原料乳内で溶血性ブドウ球菌が大量増殖したため であった。

【事象】
   脱脂粉乳を飲んだ東京都の児童ら1,936人が、相次いで激しい嘔吐や下痢、 腹痛などの食中毒症状を起こした。

【経過】
   1955年2月28日、3月1日、20都道府県の小学校で、 それまで給食に使用していた輸入脱脂粉乳の手配が遅れたため、文部省の指令により 初めて国産の脱脂粉乳を使用した。
   3月1日午後〜2日、溶血性ブドウ球菌が 増殖した原料乳を使用して、1954年11月2〜20日に製造された脱脂粉乳を飲んだ東京都の児童ら 1,936人が、相次いで激しい嘔吐や下痢、腹痛などの食中毒症状を起こした。

【原因】
   1. 装置の故障および停電事故・・・・・使用環境変化
1954年10〜11月、デンマークから購入したばかりの最新鋭の粉乳製造機で噴霧乾燥機の 特殊ベルトが切断、補充に時間を要し、さらに停電事故が重なった。
   2. 一部の原料乳の殺菌処理が翌日に繰り越された。・・・・・手順無視
このため、長時間高温で放置された原料乳内で溶血性ブドウ球菌が大量増殖 (菌の混入経路は不明)。

【対処】
   3月2日、雪印乳業は、 「厳重な検査をして出荷しているので不良品が出たということは 考えられない。製品に絶対に間違いないと確信している。 調理法に間違いがあったかどうか調査してみないと分からない」とした。
   3月3日、東京都は、 給食で配られた脱脂粉乳から溶血性ブドウ球菌を検出したと発表。 雪印乳業の佐藤貢社長は、即座に製品の販売停止と回収を指示、新聞各紙に謝罪広告を掲載、 自ら報道各社を訪ね説明。被害者や取引先、酪農家などへの訪問謝罪を実施。 社長自らが八雲工場で原因調査に当たり、他工場にも再点検を指示。
   3月18日、佐藤社長は 八雲工場に全従業員を非常招集し、「品質によって失った名誉は、品質をもって 回復する以外に道はない」として次のような内容を訓示。
  • 「当社の歴史上、未曽有の事件であり、光輝ある歴史にぬぐう べからざる一大汚点を残した。 この影響するところ極めて大であり、消費者の信用を失墜し、 生産者に大いなる不安を与え、これはまさに当社に与えられた 一大警鐘である」
  • 「最高の栄養食品である牛乳と乳製品をもっとも衛生的に生産し、 国民に提供することが当社の大いなる使命であり、 また最も誇りとするものであるが、この使命に反した製品を 供給するに至っては当社存立の社会的意義は存在しない。 この使命達成は容易でないが絶えず工夫し研究し時代の推運に 遅れないよう努力すれば不可能ではない」
  • 「乳製品は細菌にとって理想的環境。保存温度を誤れば短時間に無数に繁殖する。 牛乳及び乳製品は、常にその保存と取り扱いに細心の注意を払わなければ 直ちに品質は汚染、変質するのであるから周到な管理が必要である」
  • 「信用を獲得するには長い年月を要し、これを失墜するのは一瞬である。 そして信用は金銭では買うことはできない」
  • 「機械はこれを使う人によって良い品を生産し、あるいは不良品を生産する。 人間の精神と技術とをそのまま製品に反映する。 機械はこれを使う人間に代わって仕事をするものであり進ん だ機械ほど敏感にその結果を製品にあらわす。 今回発生した問題は当社の将来に対して幾多の尊い教訓を われわれに与えている」
   社長が訓示を終えると、工場の製造課長が進み出て 「すみませんでした」と土下座。 社長は泣きじゃくる製造課長を抱き上げながら、 「君、これからが大事なんだよ」と語りかけた。 雪印の対応は好感され、この年の売上を逆に増やした。 佐藤社長は後に「日本酪農の中興の祖」と呼ばれるようになった。

【対策】
  1. 雪印乳業は、衛生管理、検査部門を独立させ、検査網を強化するなどした。
    同時に、従業員の衛生教育を強化し、監視員を随時、各工場に派遣し、
    衛生管理を指導する体制を作った。
  2. 「牛乳の処理加工及び製品の出荷についての心得」10か条を全工場に通達。
  3. 3月18日の社長訓示は「全社員に告ぐ」と題され、全社員に配付。
    この年には、「森永ヒ素ミルク事件」が起きたこともあり、 牛乳について厳しい衛生基準が設けられた。
  4. 1956年からは新人社員にも「全社員に告ぐ」配付、衛生管理研修の一環として 取り上げられるようになった。
    ただし、1976年以降、「全社員に告ぐ」を新人社員にを配付するのは打ち切った。
【背景】
   1950年、父佐藤善七らが1925年に作った北海道製酪販売組合が 雪印乳業株式会社に組織改変され、佐藤貢が初代社長に就任。 衛生管理を徹底し、工場従業員は全員丸刈り、酒やたばこは禁止した。
   同社長自身、45歳まで頭をそり上げていた。 これほどまで、注意していたのに事故は発生してしまった。
   不特定多数の消費者を対象とする食品メーカは、安全を確保するために、 あらゆるトラブルを想定した危機対応マニュアルが求められるが、 雪印には備わっていなかったのである。

【知識化】
  1. 定常状態からの変化(この場合は機械故障や停電)が どのように影響するのかを常日頃明確にしておく必要がある。 ・・・・・仮想演習不足
  2. 失敗への対応方法によってはプラスにすることもできる。 この時の社長の対応が評価され、逆に売上が伸びた。
  3. 失敗の歴史は繰り返される。繰り返さないための対策が必要である。
    1955年のこの事件の後、停電時の対応マニュアルは整備しなかった。
    そして、2000年6月に停電が直接原因の極めて類似の食中毒事故 (有症者数14,780名)が発生した。
    また、25年前に「全社員に告ぐ」の配布を打ち切ったこととの関連も 否定できない。 食中毒事件が二度繰り返されたが、三度目は許されない。
【総括】
   「乳製品は細菌にとって理想的環境。保存温度を誤れば短時間に 無数に繁殖する。牛乳及び乳製品は、常にその保存と取り扱いに細心の注意を 払わなければ直ちに品質は汚染、変質するのであるから周到な管理が必要である」 佐藤社長が、食品メーカとして当たり前の原理原則を社員に述べなければならなか ったところに、問題の本質があろう。
   なお、事故前まで給食に使用していた輸入脱脂粉乳の手配が遅れたため、 文部省の指令により初めて国産の脱脂粉乳を使用して、今回の事故が発生している。
もちろん従来通り輸入脱脂粉乳を使っていれば、事故は発生していない。
   この変更が直接原因ではないが、不思議とこのような変化の際に、 不具合が発生することがある。

以上