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  失敗百選 〜チェチェン・テロリストが劇場占拠〜

【動機】
かつてのテロの主流は冷戦構造を軸にしたイデオロギー対立に基づくもので、政治的であるゆえにテロリスト との交渉によって妥協点を探ることが不可能ではなく、テロリスト側にも革命達成のために出来る限り生き延 びようという発想が存在した。しかし最近では、9.11同時テロ事件のように、宗教問題や民族問題が複雑に絡 み合っているために交渉による平和的解決が困難なタイプのテロが増加し、テロリスト側も生命を惜しまず自 爆攻撃するケースが目立っている。本稿では、このような「非妥協型」のテロ事案への対応を模索する材料と して、先日モスクワで発生した劇場占拠事件について解説することとする。
【事例発生日付】2002年10月23日

【事例発生地】モスクワ

【発生場所】市内劇場、Dubrovka Theater

【死者数】120名(人質となった観客)、50名(テロリスト)

(図:薄緑色がロシアにあたる。黄色の点がモスクワ。SYDROSE 提供)


10月23日、チェチェン紛争でロシア軍の撤退を要求するテロリストグループが上演中の劇場で800人余りの人質を 取って立てこもった。2日半に亘る交渉の後、ロシア警察が毒ガスを使ってテロリストを攻撃、100人以上の人質が テロリストに殺されるのではなく、毒ガスのため命を落とした。ただし、より多くの犠牲を抑えるために仕方のな い結果とも思われている。
【経過】
2002年10月23日午後9時頃、人気ミュージカル「ノルドオスト」を上演中のモスクワ南部の 劇場センタービルをチェチェン独立派の武装集団が占拠した。観客や劇場関係者858人を人質とした武装集団は、ロ シア軍が一週間以内にチェチェン共和国から撤退することを求め、この要求を受け入れなければ人質もろとも劇場を 爆破すると脅迫した。武装集団41人(人数については諸説あり)は、自動小銃や拳銃など52丁の銃器と105個の手榴弾 を装備するとともに、自爆用として爆弾25個(TNT火薬120キロ相当)を劇場内に持ち込んでいた。彼等の中にはチ ェチェン紛争でロシア軍に夫を殺された未亡人など18人の女性も含まれ、彼女達は身体に自爆用の爆弾を巻きつけて いた。

この重大テロ事件に対して、ロシア政府は旧KGBの流れを汲むFSB(連邦保安局)副長官を作戦指揮官に任命し、FSBの 誇るテロ対策部隊「アルファ」を投入した。アルファは、事件当日の夜のうちに劇場センタービルに侵入してビル内 部の様子を確認するとともに、特殊ガスの容器を密かに運び入れて待機した。一方、劇場内の武装集団は、イスラム 教徒と子供、外国人など百数十名を解放したが、残りの人質を劇場ホールの観客席に集めて監視を続けた。これに対 して、プリマコフ元首相などの著名人や赤十字国際委員会が武装集団の説得を試み、また、テレビ局のクルーが劇場 内部に入って武装集団にインタビューするなどの動きがあった。

26日午前5時半頃、ビルの換気システムを利用して劇場ホール内に特殊ガスが注入された。その一時間後にアルファ 部隊が内部に突入し、特殊ガスによって抵抗不能状態に陥っていた武装集団全員を射殺し、発生から約58時間で事件 は解決した。この事件で人質129名(8人の外国人含む)が死亡したが、そのうち武装集団に射殺された者は5人にとど まり、ほとんどは突入の際に使用された特殊ガスが原因で生命を失ったと推定されている。なお、ロシア政府は「人 質の処刑が開始されたのでやむを得ず突入した」と発表したが、生還した人質の証言ではそのような事実はなく、治 安当局の計算したタイミングにより本作戦が実施されたことが判明している。
【原因】
特殊ガスが使用されても、劇場の広い空間にガスが充満するまでには相当の時間が必要である。人質の証言でも意識 を失うまでに数十秒から数分を要したとされ、自爆用に爆弾を抱えていた女性テロリストには、起爆装置を作動させ るのに十分な時間的余裕があったはずだ。それなのにどうして爆破できなかったのだろうか。

第一の理由として考えられるのは、起爆装置が一時的に解除されていたことだ。爆弾を身につけていた女性テロリス トは武器の取扱いには素人であるため、何らかのミスで暴発させてしまうおそれがある。そこで、彼女達の所持して いた起爆装置は、電池や信管を抜き取られていた可能性が高い。これまでの強行突入のパターンであれば、周囲に配 置された警戒員が特殊部隊と銃撃戦を行っている間に起爆可能な状態に戻せばよかった。しかし今回の事件では、ま ったく予想外のガス注入によって、テロリスト側が起爆装置を慌てて組み立てている間に失神してしまったというわ けだ。

第二の理由は、指揮官の不在である。特殊ガスが注入された時点では、モフサルバラエフ司令官は観客ホールの外 にいたと推定されている。特殊部隊の強行突入の際にどうするかという打ち合わせは綿密になされていたはずだが、 特殊ガスの注入という予想外の事態に対して、女性テロリスト達が当惑したことは間違いない。指揮官の命令を待た ずに起爆すべきかどうか躊躇しているうちに意識を失ってしまった可能性が考えられる。本事件では、人質の中に治 安当局の職員がいて、密かに携帯電話で劇場内の模様を通報していたと伝えられており、モフサルバラエフが観客 ホールの外に出たタイミングを見計らってガスを注入したのではないだろうか。

第三の理由は武装集団側の弛緩である。自爆という行為を実行に移すためには相当な精神の昂揚が必要と考えられる が、人質の証言によると、突入直前の段階で武装集団側の緊張が急に緩んだ状況が認められるのだ。迷彩服を脱いで 平服に着替えたテロリストもいたということだが、これは人質との区別をつきにくくして狙撃を避けるためであり、 武装集団は人質と共に劇場外に出た時のことを考えていたと推察される。おそらくロシア治安当局は、武装集団を人 質とともにチェチェンに帰還させると騙して、作戦の成功率を上げようとしたのだろう。ロシア政府には、96年の ダゲスタンでの病院占拠事件で同じように策謀を巡らして独立派武装集団を殲滅した前例がある。
詳しい【背景】はこちらから
【知識化】
詐術を使うのは決して望ましいことではないが、相手が法を犯して無辜の人々の生命を脅かしているテロリストである 以上、治安当局側が信義則を貫く必要はない。勿論、詐術を用いた「前歴」があると治安当局に対する不信感が高まり、 その後の同種事件での交渉作業が困難になるので、無闇に詐術を弄するのを避けることは当然だ。それでも、ここ一番 というケースで、人質の犠牲をできる限り少なくするために、詐術を用いてテロリストの油断を誘う戦術は極めて有用 であることは認めてよいだろう。
【特殊ガスの正体】
事件解決後にFSBは、今回使用された特殊ガスの名称が「コロコル(「釣り鐘」の意味)」であり、空間の上方から下 方に円を描くように釣り鐘状に拡散する特性があると説明したが、その成分については当初明らかにしなかった。その 後、人質の症状などから麻酔薬フェンタニルが使用された可能性が高いとの報道が相次いだことを受けて、ロシア保健 省は特殊ガスの主成分がフェンタニルであると追認したが、ガスの全容についての説明は引き続き拒否している。
このフェンタニルは麻薬性の鎮痛薬であり、全身麻酔などの用途に使用され、鎮痛作用はモルヒネの百倍と言われてい る。医療現場ではフェンタニルを液体に溶かして静脈注射するが、今回のケースでは、噴霧器でエアロゾル(微粒子)に して使用したと推定される。犠牲者の多くは特殊ガスの副作用による呼吸停止や嘔吐による気道閉塞などで死亡したと 見られるが、フェンタニルの副作用も呼吸抑制や嘔吐であり、特殊ガスの症状と符号する。それ以外の成分は吸入型の 麻酔薬であるハロタンやハロゲン化エーテルと推定され、これらもフェンタニルと同様に呼吸抑制の副作用を有する薬 物である。このような医療用の麻酔薬として広範に使用されている薬物を混合したものが、今回の特殊ガスの正体と考 えてよいだろう。
一部には、化学兵器の一種であるBZガス(無能力化剤)が使用されたとの報道も見られるが、BZガスに即効性はなく、人 体に作用するまでに30分ほどの時間を要することから、今回の特殊ガスとの関係は薄いと考えられる。また、報道映像 を見る限りでは、特殊ガスの注入後に現場に突入した特殊部隊員は通常装備であって、化学兵器用の特殊防護服を着用 していないことから考えても、何らかの化学兵器が使用された可能性は低い。
人質に百名を超える特殊ガスの犠牲者が発生したことに対し、ロシア政府の救護体制が不十分だったと非難されている が、これは作戦の秘匿が原因である。今回の事件では、ロシアの一部報道機関が特殊部隊の動きを生中継したり、劇場 内で武装集団にインタビューして、その要求を全国に発信したりするなど治安当局に非協力的な姿勢を見せていた。そ のため、事前に救護体制を整えると、報道を通じてテロリスト側に作戦を察知されると治安当局が危惧したのも無理は ない。しかし、特殊ガスの吸引者に対する治療方法のガイドラインをあらかじめ用意しておいて、ガス注入と同時に救 護関係者に配布すれば、相当に犠牲者数を減らすことが可能だったはずであり、やはりロシア政府の対応には問題があ ったと言わざるを得ない。
なお、このマスコミ報道の行き過ぎを受けて、事件後にロシア上下両院が報道規制法案をスピード可決した。また、新 聞放送省が「テロリストへのインタビューはしない」「特殊部隊の秘密情報を入手しようとしない」「政府とテロリス トの仲介をしない」などを内容とする勧告をマスコミに対して行うなど、ロシア政府によるメディア抑圧の動きが進ん でいる。
人質立て篭もり事件の際に催眠ガスが実際に使用されたのは、筆者の承知する限りではこれが初めてのケースである。 これは、今回の一件が如実に示しているように、催眠ガスが人質に与える被害を治安当局側が懸念していたためだ。も しも今回の事件でロシア側が万端の医療準備を整えていたとしても、何人かの死亡者は間違いなく発生しただろう。広 い劇場内のテロリスト全員を行動不能にするためには高濃度の麻酔ガスを大量に注入せざるを得ないが、そうなれば体 質や身体疾患などで変調を来たす者が出ることは避けられないからだ。それでも、通常の突入作戦を行っていれば、前 述したように犠牲者の数がはるかに甚大だったことを考えると、特殊ガスの使用が間違いであったとは言えまい。
【情報源】
  • http://www.warsawvoice.pl/old/v732/News04.html
  • http://english.peopledaily.com.cn/200211/07/eng20021107_106393.shtml
  • http://www.atimes.com/atimes/Central_Asia/DJ30Ag01.html
  • http://www.digitaljournal.com/news/?articleID=3333
  • http://www.washtimes.com/world/20021027-6713290.htm
  • http://www.cnn.com/2002/WORLD/europe/10/23/russia.siege/
  • http://www.time.com/time/europe/eu/daily/0,13716,419946,00.html
  • http://www.worldpress.org/article_model.cfm?article_id=923